ずれ

少なくとも3日にひとつは記事を書こうと決めていたのに1週間ほどサボってしまった。そのくせやるべきこと(つまるところ卒論)は何も進んでいない。絵を描いて、それを何度も修正して、わからなくなって、気晴らしと言い訳して友人とスマブラに興じていた。こんなことではダメである。今まさに東京学芸大学へ卒論の参考文献を求め馳せ参じている真っ最中。これを機に心を入れ替えるしかないが、空っぽの電池を取り換えるみたいに簡単にはいかない。とにかく絵は暫く描かないことにしよう。「暫く」が何ヶ月になるか、何週間になるか、何日になるかは、神のみぞ知る。

 

絵を描くのは楽しい。それを人に見せて評価してもらうのも醍醐味のひとつである。そんな中万が一にもたくさんの人から気に入ってもらえたならば、絵描き(というのもおこがましいが)冥利に尽きるというものだ。ただ、評価が多く、高くなるにつれて、得もいえぬもやもやを感じることがある。

これは「ずれ」なのだ。自己評価と他人の評価のずれ。自分が高く評価しているものに対して見向きもされない、というのはまだマシで、その逆が実にしんどい。他人の評価>自己評価、という状況である。そうなってしまうと面倒だ。自分の中のスタンダードがいたずらに掻き回され軸がぶれて混乱する。加えて、これはほとんど私の性格上の問題だと思うが、感性に自信がなくなり、卑屈になり、勝手に高いハードルを設定する。結果として自分のために描いていた絵がいつのまにか誰かのための絵になり、自覚した瞬間虚ろになる。こんなことがSNSを始めてからは時々ある。

これは絵に関してのみいえるものではなく、これまでに散々私を苦しめてきた。私はとかく叱られるのが嫌いで、いわゆる「良い子」でいることを心がけて生きてきた。勉強もスポーツも見かけはよく頑張った。そのために褒められることもあった。もちろん褒められて嫌な気分になる人はいないだろう。私も例外ではなく、褒められたらイヤイヤマァマァ、なんて謙遜しながらも浮かれる。称揚されることそれ自体は何てことはないのだが、問題はそれがエスカレートして妙な期待を持たれることだ。あの子はきっとできる、そつなくこなせる、失敗しない、優れた成績を残せる、仕事ができる、エトセトラ。「あなたなら大丈夫だよ」なんて無責任なセリフを何度吐き捨てられたことか。いや、信頼してくれるのは素直に嬉しいが、それは私の身の丈に合っていないのだ。そもそも私は人より要領が悪く、熱心さにも欠ける。これは卑下でも何でもなく、紛れもない事実である。このことから目を逸らして私を評価しないで欲しい。そういう意味では、私を密かに無能認定している現在のアルバイト先の店長は素晴らしい慧眼を持っているといえるだろう。

重圧にすこぶる弱い私はそういう環境に置かれるとすぐ折れる。その場から逃げ出したくなる。そうならないためにも、ずれをなくすべく努力しなければならない。自己評価と他人の評価を完全に一致させるのは流石に難しいだろうが、その差を小さく小さくするよう補正したい。取り繕わず生きていけばこんなことにはならないはずなのである。もう少し、あるがまま適当にしょうもない立ち振る舞いでいようと思う。大変なことだけれども。

 

自意識過剰かと問われれば、そうかもしれません。ともあれ、強く生きていきましょう。